新・鳴滝塾ってなに?トップページの胸像はだれ?と思われている方も少なくないかもしれません。
トップページの胸像のモデルは、シーボルト。新・鳴滝塾の名称は、シーボルトが開いた『鳴滝塾』に由来します。
 シーボルト像(長崎市鳴滝2丁目 シーボルト宅跡)
シーボルト(Philipp Franz Jonkheer Balthasar von Siebold)は、文政6年(1823年)、オランダ商館付きの医師として来日しました。この時シーボルトは27歳。
翌年、長崎奉行の許可を得て(当時、出島のオランダ人が出島の外に出ることは禁止されていました)、長崎市鳴滝の自宅に開いた学塾が、『鳴滝塾』です。
シーボルトは、『鳴滝塾』で患者の治療にあたり、全国各地から集まった多くの門弟たちに西洋の進んだ学問や科学的な思想を教え、その一方で、日本の歴史・地理・言語・動植物などを研究しました。
ここで学んだ門弟たちの中には、その後幕末に活躍した蘭方医も多く、『鳴滝塾』は我が国における西洋科学発祥の地として、日本の近代化に大きな役割を果たしました。
文政11年(1829年)帰国の際に、「大日本沿岸輿図全図」などの禁製品を持ち帰ろうとしたことが発覚し、翌年国外追放となりました。これがいわゆる“シーボルト事件”といわれるものです。
安政6年(1859年)、オランダ商事会社と顧問として再来日し、江戸幕府の外交にも参画しました。
文久2年(1862年)に帰国し、4年後にミュンヘンで亡くなりました。
シーボルトは、日本の植物について積極的に研究を行っており、ヨーロッパに帰った後「日本植物誌」を出版しましたが、この中でアジサイ属に関して多く取り上げています。日本における妻お滝さんにちなんで、アジサイの学名を「ハイドランゲア・オタクサ(Hydrangea Otakusa Sieb.)」と名づけたことは有名なエピソード。シーボルト宅跡には、5月の中旬ごろになると数多くの“オタキサンバナ”(アジサイ)が咲き誇ります。 “オタキサンバナ”は、長崎市の花としても親しまれています。
 『鳴滝塾』(シーボルト宅)跡とシーボルト記念館(長崎市鳴滝2丁目)
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